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自分と向き合い続ける人々

 

「まず、自分と向き合ってみます」

 

そう言って、何年も経つ方がいます。カウンセリングの場でも、講座の門を叩く前の方々との会話の中でも、この言葉を幾度となく耳にしてきました。

 

「自分と向き合う」という言葉が、いつの間にか立ち止まるための"美しい言い訳"になってしまっているケースが、あまりにも多いということです。

 

向き合う、という行為を、多くの方は「準備」だと思っています。何かを始める前に整えておくべきもの、ある種の儀式です。
しかし本当にそうでしょうか?

 


私が思う「自分と向き合う」とは、準備ではありません。それはすでに、魂の旅そのものです。

 

地図も持たず、ゴールも定まらず、ただ己の内側という広大な原野へと踏み出していく。

 

その旅に、「準備が整ったら出発する」という概念は存在しません。なぜなら、踏み出した瞬間からすでに、あなたは自分と向き合っているからです。

自分の内側への旅とはどういうものか、もう少し正直にお話しします。

 

最初にぶつかるのは、快適な自己理解などではありません。


自分がいかに都合よく記憶を書き換えてきたか、いかに感情に名前をつけることを避けてきたか、そういった不都合な真実との遭遇です。
「私は傷ついた」と思っていたのに、深く掘り下げると「私は怒っていた」とわかる。「相手のせいだ」と信じていたのに、気づけば「私が選んでいた」という事実に行き当たる。自分と向き合うとは、そういう、少しも心地よくない作業の連続です。

 

では、ここで少し踏み込んで考えてみましょう。

 

「自分と向き合い続けている」と「自分の中をぐるぐると回り続けている」は、まったく別のことです。

 

内側を深く見つめているつもりで、実は同じ場所を何度も辿っているだけ、ということが起こります。

過去の出来事を繰り返し思い出しては傷を確認し、また同じ結論に戻ってくる。その作業を「向き合い」と呼んでいる間は、実はあなたの旅は既に止まっています。掘り下げているのではなく、同じ深さの穴の底で座り込んでいる状態です。

 

本当の意味での「向き合い」には、必ず変化が伴います。

 

昨日と今日の自分が、わずかでも違っている。見えていなかったものが、少しだけ見えるようになっている。そういう小さな更新が積み重なっていくものです。

 

変化のない向き合いは、向き合いではなく、執着かもしれません。痛みに慣れ親しんでしまうことと、痛みと正面から対峙することも、また別のことです。

 

自分と向き合うことを続けてきた人ほど、この違いに鋭敏になっていくはずです。

 

「私は今、本当に進んでいるか。それとも、ここに留まることに安心を感じているだけか」と、問い直す習慣を持っている。その問いかけ自体が、旅を前へと動かし続けているのだと私は思います。

 

それでも人は向き合い続けようとする。なぜでしょうか。
向き合うことをやめた瞬間に、何かが自分の中で止まってしまうような不安感からではないでしょうか。うまくいかなくても、答えが出なくても、それでも内側を見続けている人は、自分は少しずつ変わってくると信じています。

 

昨日まで気づかなかった自分の癖に気づく。ずっと避けてきた感情に、初めて名前をつけられる。そういう小さな発見が積み重なるうちに、自分というものが、だんだんわかってくる。その手応えが、次の一歩を促すと感じているのだと思います。

 

向き合い続けるということは、終わりのない対話です。深く潜れば潜るほど、また新たな自分の層が現れる。それでも歩みを止めない人だけが、本当の意味で自分と向き合っている人です。

 

「向き合う」を言い訳にしている間は、まだ旅に出ていません。入り口の前に佇んで、旅について考えているだけです。考えることと、歩くことは、まったく別のことです。

自分の内側への旅に、完璧なタイミングなど存在しません。準備が整った人間など、一人もいない。15年この道を歩んできた私自身が、今もその旅の途上にいます。

私にとってこの旅は、スピリチュアルを仕事に選んだあの日に始まりました。

そしておそらく、この仕事を終える日に、初めて幕を閉じるのだと感じています。

 

始まりも終わりも、自分では選んでいない。この道がそうさせたのだと、今はただ、そのことを深く受け止めています。

自分と向き合い続けるとは、答えを出すことではありません。問い続ける勇気を、手放さないことです。

 

その旅は、あなたが思っているよりずっと壮大で、ずっと深く、そしてあなたが最初の一歩を踏み出した、その瞬間からもう始まっています。