神に繋がるとは過ぎたること
はじめに
スピリチュアルを学んでいくと、「神に繋がる」「神を付けられる」という話に必ず出会います。
しかし私は、肉体を持ちながら神に繋がり、神を扱うなどということは「過ぎたること」だと考えています。
なぜそう思うのか。それには深い理由があります。
人間の有限性と神の無限性
まず第一に、人間の有限性と神の無限性の間には、決して越えることのできない境界が存在するということです。
私たちは肉体という器の中に意識を宿した存在です。
どれほど精神的に成長したとしても、この根本的な制約から逃れることはできません。
一方、神とは無限なる存在、全てを包含し、全てを超越した存在です。
有限なる者が無限なる存在と「繋がる」「扱う」と言うとき、そこにはすでに根本的な誤解があります。
まるで蟻が宇宙全体を把握できると言っているようなものです。
私たちが神的な体験をしたと感じる瞬間があったとしても、それは神の無限性のほんの一滴に触れたに過ぎません。
その一滴でさえ、私たちの理解を遥かに超えているのです。
慢心と誤解の危険性
スピリチュアルな体験は、時として大きな落とし穴となります。
特別な体験をした時、私たちの自我は膨張し、「自分は選ばれた存在だ」「神と特別な関係にある」という慢心に陥りやすいのです。
現代のスピリチュアル界を見渡してみてください。
「私は神と繋がっている」「神からのメッセージを受け取っている」と公言する人々の多くに、果たして真の謙遜さがあるでしょうか。
真の神的体験を得た者であれば、その体験の前に恐れおののき、自らの小ささを痛感するはずです。
軽々しく神について語ったり、神を自らの権威づけに利用したりすることなど、とてもできないでしょう。
真の霊性に不可欠な謙遜
真の霊性の成熟度は、その人の謙遜さによって測ることができます。
神秘的な体験を積めば積むほど、学びを深めれば深めるほど、真に成熟した魂は自らの無知を知り、神の前での自らの小ささを実感するものです。
それは決して自己卑下ではなく、宇宙的な秩序における自らの正しい位置を理解することなのです。
古来より、あらゆる宗教的伝統において、神に近づく道は謙遜の道でした。
修行僧が何十年もかけて自我を削ぎ落とし、聖者たちが生涯をかけて神への奉仕に身を捧げてきたのも、この謙遜の重要性を理解していたからではないでしょうか。
現代の軽薄さへの警鐘
しかし現代はどうでしょうか。
「簡単に学べばもたらされるもの」という勘違いが蔓延しています。
スピリチュアルなワークショップやセミナーでは、まるで商品を購入するかのように「神と繋がる方法」が提供されています。
数日間のコースで「神的な力を習得」できると謳う広告を見かけることも珍しくありません。
SNSでは神的な体験が軽々しく投稿され、「いいね」やコメントで消費されていきます。
本来なら生涯をかけて向き合うべき神聖なる体験が、日常的な出来事のように語られているのです。
この神という存在への扱いの軽さこそが、現代スピリチュアルの最大の問題点だと感じています。
真の道とは
では、私たちはどのような姿勢で神聖なるものに向き合うべきなのでしょうか。
それは「繋がろう」「扱おう」とするのではなく、ただひたすら謙虚に畏敬の念を持ち続けることです。
神の前では、私たちは永遠の学習者であり、永遠の初心者なのです。
真の成長とは、神を自分の側に引き寄せることではなく、自分が神の意志に沿って生きられるよう、日々自らを浄化し続けることです。
神に「繋がる」のではなく、神に「仕える」。
神を「扱う」のではなく、神に「委ねる」。
この違いを理解することが、真のスピリチュアルな成熟への第一歩なのです。
おわりに
肉体を持つ私たちが神に繋がり、神を扱うなど、やはり過ぎたることです。
しかし、それは決して絶望的な話ではありません。
私たちには、謙遜という美しい道が残されています。
神の前での自らの小ささを知り、畏敬の念を抱き続けること。
それこそが、有限なる存在である私たちに許された、最も尊い神への近づき方なのです。
現代の軽薄なスピリチュアリティに流されることなく、古来より受け継がれてきた謙遜の道を歩み続けていきたいものです。
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